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第一経理ニュース

我が社の原点

拡大よりもバランスを  ~ 長寿の秘訣は『年輪経営』 ~ 

 

  

  

 

株式会社 泰信電設
代表取締役 宇井 敏伸 (うい としのぶ) 

 

 足立区綾瀬に本社を置き、都内を中心に、電気工事業を営む、株式会社 泰信電設(たいしんでんせつ)さん。今年で創業47年目を迎えます。「会社の寿命30年」と言われているなか、しかも厳しい建設業界にあって、これだけの社歴を重ねてこられた背景には何があるのか。
 綾瀬駅近くの本社事務所に宇井社長をお訪ねしました。

 

聞き手 : 池袋本店 平石 共子

 

 ● あれから1年

 

―早いもので、あの震災から1年が経とうとしています。やはり、当時は影響がありましたか。

 

宇井 そうですね、我々の地盤である東京は仕事が半分以上ストップしてしまいました。影響は、12月頃まで残りましたね。その間は手が空いた人間が10名位で被災地に行き、仮設住宅の建設に携わりました。当初は現地の業者さんだけで行う予定だったらしいのですが。突貫工事で、しかも各地の現場を一斉にやらなければならないため、当然、東北の業者さんだけでは足りず、応援に行くことになりました。

 

―どの地域に行ってらっしゃったのですか。

 

宇井 最初は福島の白河に入り、その後、北へ北へと向かいました。宮城の東松島、最後は石巻・女川まで、8月一杯位まで掛かりましたね。全部で400戸位の仮設住宅の電気工事を行いました。その後、同じ石巻にある大手製紙会社の工場の復旧工事を12月ごろまで行いました。 

 

―被災地の自治体に寄付されたとお聞きしました。

 

宇井 はい、やはりあの惨状を目の当たりにして、仮設住宅工事で利益を得ることは出来ないと思い、石巻市と石巻の子供の事も考え日本ユニセフにも寄付を行いました。

 

―被災地の人も雇用されたそうですね。

 

宇井 ええ、ハローワークの求人に、被災地枠というものがあることを知り、求人を出しました。
 電気工事の経験はない方ですが、仙台市の30代の方を一人採用しました。


 

● 高度成長の荒波の中で

 

―大変な1年を経験された泰信電設さんですが、具体的なお仕事の内容についてお聞かせ下さい。

 

宇井 電気工事と一口に言いますが、いろいろありまして、身近なところでは町の電気屋さん、一般住宅の電気工事を行う電気屋さんです。
 我々が行う工事は、大きなビル・工場などの電気工事です。
 大きな現場だと、完成するまでに2年、3年掛かるケースもあります。

 

―最初から大規模な工事を手掛けていらっしゃったのですか。会社の沿革についてお聞かせください。

 

宇井 私で三代目になります。
 初代社長は私の父で正雄と言います。出身は、現在の東京都墨田区鐘ヶ淵です。父は、戦前から電気店に、当時で言う、奉公に出て電気職人として働いていました。その後、戦争がはじまり、父も出征。帰還してから独立して、電気屋になりました。
 仕事の内容は、御近所の一般住宅などの電気工事ではなく、大手の電気工事会社の下請けとしてビル・工場などの大きな現場で仕事をしていました。
 下請けと言っても一次下請けではなく、二次、三次、要するに孫請けですね。
 最初から、大きな現場を手掛けたのには、理由があるんですよ。当時は、その町、その町に、電気屋さんの、いわゆる縄張りのようなものがあって、同じ町では、町の電気屋さんの仕事ができなかった、という事情がありました。後発組ですから、すでに地元は昔からの電気屋さんが押さえていたんですね。
 やむなく、大きな現場をやることになった、という事情もあるようです。

 

―当時はまさに高度成長期の真っただ中ですね。

 

宇井 そうですね。東京オリンピックのころですね。東海道新幹線が開通したのもこのころです。西日本からも、大手の業者が東京に参入してきました。
 彼らは、東京に職人のネットワークを持っていませんでしたので、仕事の依頼はたくさんありました。大きな現場ともなると、50人、100人規模で人手が必要になってきます。
 当然、下請けも1社では対応できず、数社が一現場に入るのですが、それにしても、社員が一人二人では対応できません。徐々に従業員が増えていったのにはそういう仕事の依頼に応じるため、と言った背景もあります。

 






―ちょうど、そこへ前社長の宇井秀男氏が訪ねてきました。お兄さんと一緒に電気屋を始めた頃の話しを聞きました。

 



宇井秀男氏のお話

  兄貴が独立して電気屋を開業する前ですが、私は大学の夜学に通っていたんですよ。当時は夜学に通う学生を雇ってくれるところなんてなかったので、学校に通ってることを隠していたんです。だから、残業ができなくて、だんだん居づらくなって、職を転々としていたんですよ。
 それで、兄貴に相談したら、仕事を紹介してくれたのが電気屋で、大きいところだったので、いろんな仕事をやらしてもらいました。東京タワーの電気工事の仕事もしましたよ。東京タワーの完成は、1958(昭和33)年12月なので、1年前くらいでしょうか。
 それで、兄貴が電気屋を独立して始めたんで、一緒にやることになったんです。結果的に電気屋に修行に行ったようになりましたが、最初から電気屋になるつもりはなかったんです。
 でも、大きな現場をやる電気屋をやるしかなかったんで、人手がいるわけです。
 そういうわけで、私も電気屋になることになったわけです。最初は個人事業としてやっていましたよ。


 

 

―会社組織にされたのはいつですか。

 

宇井 1971年(昭和41年)の6月に、有限会社 泰信電業所を設立しました。その後、20年位経って、1988年の(昭和63年)2月に株式会社に組織変更し、株式会社泰信電設となりました。
 父はとにかく忙しい人で、朝早く出掛け、帰りも遅く、あまり一緒に食事をした覚えがありません。私が小学校の低学年のころは、東北地方からの出稼ぎの人たちと同居しており、お袋がみんなのご飯を作って朝晩一緒に食べていました。よく遊んでもらったことを覚えています。

 

―泰信電業所の泰信の名前の由来をお聞かせ下さい。お名前から取ったのでもないようですが。

 

宇井 父が昔、大変お世話になった会社がございまして、その会社名から泰の一字を頂きました。信は、信頼の信、信用の信、から取り泰信としました。

 

―2代目は息子さんが継ぐ事が多いと思うのですが。

 

宇井 2代目は、父の弟、私の叔父の秀男が引き継ぎました。さっきの叔父の話のとおり、叔父は父とは、最初から一緒に仕事をしてきました。
 社長を父から叔父に引き継いだのは平成6年ごろです。私は専務として下で働いていました。

 

―社長ご自身が会社を継ごうと思われたのはいつですか。

 

宇井 物心ついた頃から家は事業をやっていたわけだけれど、親父の背中を見ていたというわけでもないんです。何しろ現場は家から離れたところでしたから。 
 子供のころから、毎日スーツを着て、机の前に座ってという仕事につく気はなかったですね。サラリーマンの仕事はしないつもりでした。なんとなくですが、建築関係の現場に出る仕事に就きたいな、とは思っていました。
 昔の中学は学校で職業の適性を調べるペーパーテストがあったのですが、それによると、向いている職業は、何と、電気工事業でした。(笑)
 それでというわけでもないのですが、高校、大学と電気関係の学科に進みました。

 

―卒業後は、すぐに会社に入られたのですか。

 

宇井 いえ、最初から入ってしまうと、他社との違いが判らないですし、社長の息子がいきなり会社に入ってきたら、周りの人はどう思うかなとかも考えて、江戸川の電気会社で2年間、修業しました。
 どんな会社に入りたいか希望を聞かれ、父の紹介で入りました。
 その会社は、中規模の会社で、職人もやり、現場監督もやる、という会社でした。ここでの2年間は、職人もやりましたが、主に現場監督として働きました。
 2年間で電気屋としてのノウハウを相当会得できたように思います。
 その当時の経験は今でも生きています。

 

―会社に入られて仕事のスタイルは変わりましたか。

 

宇井 修業時代の監督としての経験を生かし、公共工事にも参入し、元請としての仕事も行うようになりました。以前からの仕事も会社の規模が大きくなるに従い、二次下請、三次下請から一次下請、二次下請へとステップアップして行きました。   それに伴い扱う材料も多くなり、売上高も高くなって行きました。

 

―会社は今期で47期を迎えられます。なかなかこれだけ続く会社はないと思いますがその秘訣は、何だとお考えですか。

 

宇井 そうですね。やはり、身の丈にあった経営をやってきた、ということでしょうか。
 私どもの会社の規模ですと、年商3億位がちょうどいいように思います。これを超えた無理な受注をすると、社内ではこなせなくなり外注に頼らざるを得ません。そうすると、当然、売上は上がるけれども逆に利益は出ない。
 社員を遊ばせてはいけないけれども、仕事が多すぎてもこなせなくなります。
 それから、得意先は一社に依存しないことです。うちは5社くらいですが、少なくとも2、3社とバランス良くお付き合いしていくことが大事だと思っています。そして、与えられた仕事は、確実に仕上げていく、当たり前のことのようですがこれが大事だと思います。私の今の仕事は、現場に出ることよりもバランスのいい受注の確保と人員配置に腐心することがメインになりました。
 最後に、当たり前のことですが、公私の区別はきっちりつける、ということです。これまでバブル期も経てきましたが、人や設備に投資はしても、それ以外には、手を出しませんでした。この姿勢は初代以来一貫しています。

2代目社長の宇井秀男さん(右)と

● 行き着くところは人

 

―最後に今後の展望をお聞かせ下さい。

 

宇井 会社の今後を考えるとき、やはり人材の育成が最重要課題だと考えています。
 会社を大きくするにも、会社規模に見合った人材が育っていないと、必ず無理がきます。
 そのため、毎年2、3人、高校生を中心に若い人を採用するようにしています。今年は、東京以外で初めて、秋田県の高校に求人を出し、一人採用する事になりました。
 埼玉県に社員寮はありますが、未成年なので、高校の先生とも相談し、しばらくは会社の近くに住まわせ、生活面の指導もしていくつもりです。

 

―社員さんは今何人ですか。

 

宇井 現場の人が十五人、事務部門、パートさんを含めると、二十名ちょっとです。

 

―若い社員の方が多いそうですね。

 

宇井 そうですね、現場で他社の人と一緒になると、よく、お宅は若い人が多いね、と言われます。
 長くいる人同士の方が、お互気心も知れているので、気が楽という面はありますが、やはり、若い人がいないと、会社が活性化していかないと思います。

 

―社員教育が大事になってきますね。

 

宇井 はい。現場では、各職長が指導に当たっています。それと電気工事の仕事は、仕事に必要な資格が多いんです。資格がないと、専門的な工事はできないことも多いので、資格取得は必須です。
 社内研修制度といったものは、まだ、ないのですが資格取得のための、外部講習には、積極的に参加させています。
 社員の中には、多い人で、十個位持っている人もいますよ。ただ、電気工事士の一種は、試験が年に1回しかないのですが必ずとるように言っています。一種はまだ半分くらいかな。

 

―若い人が多いということは、ベテランの人はどうされるのですか。

 

宇井 ある程度、三十代半ばの油がのりきった中堅になったら、独立することを、むしろ奨励しています。頑張れば収入も増えますからね。
 独立した社員は、個人事業主となる場合が多く、協力業者として、その後もいい関係を築いています。ただ、彼らは、社員時代とは違い仕事をしないと、収入がありませんから、苦しい時は、極端な話、社員は遊ばせても仕事を彼らに回すように心掛けています。

 

―後継者についてお考えはありますか。

 

宇井 会社は社員、そして協力業者の物だと思います。子供はいますが彼等に押しつけようとは思いません。社員の中でこれはという人にいずれ引き継ぐことを考えております。

 

―本日はお忙しい中、貴重なお話をありがとうございました。

 

 宇井社長のお話を伺って、年輪経営という言葉を思い出しました。
 年輪の幅が狭いほど、木は丈夫になるそうです。急な拡大を求めず、バブルに踊らされず、人を大事にしながら、着実に年輪を刻んできた経営姿勢、47年の歴史の真髄を見た気がしました。  (文責 渡部 貴広)