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第一経理ニュース

第59回 定例一・一会 記念講演報告

製造業版 ディズニーランドへの挑戦

 

 

 

 

株式会社 浜野製作所

代表取締役 浜野 慶一 

 

 

 スカイツリー見物の人々で賑わう東京都墨田区!その一歩中に入った場所に1人1人のお客様を大切にし、リピーター客を確実に増やすことで製造業版ディズニーランドを目指している株式会社浜野製作所があります。浜野慶一社長にご自身の生い立ちからお父様の会社を引き継ぎ現在の経営に至るまでの苦労から喜びまで熱く語っていただきました。

  ※昨年の11月に行われた定例一・一会記念講演の内容を掲載いたします

 

聞き手 千葉 秀蔵

 

● 小さな自宅兼工場がある墨田区

 

―株式会社浜野製作所のご紹介をお願いいたします。

浜野   昭和53年9月に父が創業して、私は二代目です。従業員が33名。業務内容は板金、プレス加工です。
  金属加工といっても大まかに3つぐらいあると私は思っております。
 一つは機械を使って削って部品を成形していく削る切削加工、旋盤とかフライス盤とかそういう手法。もうひとつは金属をどろどろに溶かして型に流し込んで部品を成形する鋳物とかロストワックスという方法。最後がプレスとか板金とかといわれる手法です。金属の平たい板を打ちぬいたり、カットしたり、穴を空けたり、曲げたり溶接して部品をつくります。当社はこのプレス加工・板金加工をやっている会社です。

講演の様子(左は当社 千葉)


 私は墨田で生まれて墨田で育っているのですが、墨田区は大田区に次いで町工場が多い地域です。
 25~30年前は9000弱くらいの町工場の集積がありましたが、今は3分の1以下になってしまいました。そんな中、墨田区の特徴は8割が従業員5人以下の典型的な家族経営でありもう一つの特徴は工業専用地域とか工業地域が全くないのです。小さな自宅兼工場がある、これが墨田区の特徴です。
 東京スカイツリーがオープンし、スカイツリー周辺の施設、限られたあの一画だけ非常ににぎわっています。日が翳って路地を一本入ると人っ子ひとり歩いていないという、こんな歪んだ、人の動きができているというところです。そんなところでわれわれは小さなちいさな町工場をやっています。

 

● 父の仕事を継ぐ決意 

 

―跡を継ぐつもりはなかったとお聞きしていますが、なぜあとを継ごうということになったのですか。

 

浜野 父は福井県の南越前町という小さな漁村出身で、東京の品川区に出てきて、金型職人としてひとりで金型屋をやっていました。しばらくして何人か従業員を雇って、墨田の典型的な町工場、父と職人ふたりが現場、母が経理。自宅兼工場というところでずっと仕事をしていました。
 私もそういうところで小さい頃から育ってきたので両親の働く姿を近くで見ていました。
 小学生ぐらいの時は父の仕事の手伝いを友達とするとお駄賃をくれる、それはなんとなく自慢だったのです。
 ところが中学、高校とそれなりの分別ができるような年代になったときに、今まで尊敬して誇りに思っていた父母のやっている仕事が嫌々やっているのだろうなと感じてしまったのです。その思いが断ち切れず、こんな仕事はやりたくないなとずっと思っていました。学校を卒業するとき私はサラリーマンになろうと思っていました。父親のやっている仕事に誇りを感じることができなかったためになんとなく尊敬できなくなっていました。
 大学四年のとき、就活をしていました。父は息子が就活をしている事を知らずにある日、会社説明会に行く時に呼び止められ生まれて初めて、口数も多くない父から酒を飲みに行かないかと誘われました。
 飲みに行き30分ぐらい無言ののち「中小企業の経営って楽しい、ものづくりって楽しい、俺はこの仕事を誇りに思っている」というのです
 しょうがなくこの仕事をやっていると思って、だから尊敬できなかったのです。ところが親父はそういう話をしたのです。
 21歳の浜野青年にとって、それはものすごく衝撃的なことで、ガツンとやられた気がしました。そんな話を聞くと、これは親父の代でつぶしてはいけないな、親父のあとを継がなきゃいけないなという気になって、父に相談しました。そこから私の不幸が始まるわけですが、経緯としてはこんな感じです。

 

● 度重なる苦難

 

―すぐに後を継がないで丁稚奉公に行き、それから29歳の時にお父さんが亡くなられて、浜野製作所を継ぐことになるのですが、その辺のところをお聞かせください。 

 

浜野 父に相談すると、うちは従業員二人ぐらいしかいない会社だし、僕が入っても使い物にならないから丁稚奉公をしてこいといわれました。
 最低でも10年行って来いというので一応そのつもりで行ったのですが、8年目に父が亡くなって、戻ってきたのが1993年でした。その3年後に母が病気で亡くなってしまいました。

 

―その後もまた大変なことが起こりましたね。 

 

浜野 量産のいわゆるプレスという加工をやってきたのですが父から引継いできた仕事がだんだんなくなってきました。
 このままではメシが食えないなと、なにかやらなくちゃいけないなと思っている頃、2000年になって、6月30日に父母が残してくれた工場が、隣家からのもらい火で全焼してしまいました。

 

―工場を建てようと思ったとき、また、たいへんな災難がふりかかってくるのですね。 

  

浜野 今のままではだめだとは思っていたのです。それまでは量産型の仕事でしたが、少ロットに対応できる、専用の金型をつくらなくても部品加工できるそんな工場を建てようと思ったのです。その工場が完成したのが2000年9月です。完成はしたのですが、その2ヶ月前に父母から譲ってもらった工場が火災でなくなってしまった。
 9月に工場が完成するのですが、火事の後始末をしなきゃいけない。火事の影響もあってと、お客様から注文された品は全然できないのです。動かないということは売り上げが立たない。支払いの督促はどんどんくる。お金がどんどんなくなりました。火事の方はもともとは住宅メーカーさんからの手配で解体工事をした業者さんです。東証一部上場の大手住宅メーカーさんで、補償を約束してくれたのです。翌年その会社の本社に、「実印もって朝9時に来て下さい、浜野製作所さんに6000万円補償金も含めて賠償金をお支払いします」ということでした。6000万円あればなんとかなる、と思っていました。前日昼のニュースをみていたら、住宅メーカーの殖産住宅が倒産したというのです。次の日の朝6000万円くれるという会社が前の日に倒産した、ということでお金が一切もらえなくなりました。

 

● どん底を支えてくれた社員

 

―そういったなかでどん底を支えてくれた社員の方がいらっしゃいましたね。

 

浜野 いまでも当社にいますが、当社の経営理念がこれです。『おもてなしの心』を常に持ってお客様・スタッフ・地域に感謝・還元し、夢(自己実現)と希望と誇りをもって活力ある企業を目指そう!」
 当時、数人の職人さんと丁稚奉公先で知り合った5歳下の後輩の金岡がおりました。その彼がたまたま何かの縁で連絡が取れて忙しくなってきた時に手伝いに来てくれました。

 火事になって、朝から晩まで仕事をしていました。寝る間も惜しんで火事の後始末をしながら遅れてしまっている仕事をやらなくてはならなくなりました。仕事が終わって金岡と2人で金型を磨いて次の日の準備をしなくてはなりません。3ヶ月以上も土日も全くなく、金岡は僕に付き合ってくれました。

熱心に聞き入る参加者のみなさん

 仕事も遅れ会社がどんどん傾いてきて従業員に給料が払えなくなってそれでも金岡は3ヶ月以上も付き合ってくれていたのです。そんなある日あまりにも申し訳なくて夜中の2時半ごろ金型を磨きながら金岡に「辞めていいぞ」と言いました。
 彼は僕の目を見るわけでもなく、金型を磨きながら、こう言いました。「俺は金のために仕事をしているのじゃない。浜野さんと仕事がしたいから、ここに来ているんだ、俺は絶対やめない。まだこの会社は終わったわけじゃない、まだ何も始まっていない、最後まであきらめないでやるんだ」と。
 金岡の一言がものすごく心に刺さりました。一人でもそういうふうに思ってくれるやつがいるのなら、ぜったい頑張らないといけないなと。夢と希望と誇りをもった活力のある企業になる、これが応援してくれた人への恩返しではないかと思って、この経営理念をつくりました。

 

● 産学連携始まる

 

―早稲田大学、一橋大学との産学連携が始まり社員の成長が促されて会社の大きな発展につながっていったのですね。

 

浜野 徐々に仕事も増えてお客様の数も増えてきて、忙しい日々が続きました。
 時代はものすごいスピードで動いているので、人を採用しなきゃいけない。しかし会社の中がばらばら、定着はしないし上手くいかない。
 そんな時に早稲田大学の先生と一橋大学の先生に出会いました。「うちの学生をあんたのところへ工場見学させてくれないか」という話が2003年ぐらいから始まりました。
 そこからインターンシップをやることにより新鮮な空気を入れるために窓を開けて、新しい風を流す、そんなイメージで一橋と早稲田の学生との産学連携みたいなのを始めました。
 新しい目線、元気な優秀な学生達が入ってくることによって、会社のなかの文化や風土が変わってきました。
 2003年から2008年ぐらいまで新商品をつくるためではなく、会社の文化・風土を変えるために産学連携をしその結果として、電気自動車の製作に携わったり、深海探査艇のプロジェクトに参加させていただいたり、そのような経緯があります。

 

―ホンダの役員のみなさんが、浜野製作所に研修に伺ったそうですね。これはどういうことからでしょうか。

 

浜野 それは今でもわからないです。ホンダの常務さんの話では、ホンダの原点とは何だといったら、町工場だと。その町工場の原点を、創業者本田宗一郎さんが立ち上げたときの原点をやっぱりわれわれももう一回心に刻もうということで、さいころ投げたのが当たったのか、違ったのか知らないですけど。そういうのがあってうちに来ていただいた、と聞きました。

 

● 忘れられないパイプの手すり

 

―心のなかに残っているエピソードをご紹介ください。

講演中の浜野氏

浜野 大体われわれのような工場だと量が増えないし単価も安いという理由で個人のお客様のお仕事はやりたがらないのです。しかし7年前にあるきっかけがありまして、それからずっと受けています。
 あるときパイプを追加工してほしいというメールの依頼があったんです。ちょうどそのメールを読み終わったとき一本の電話がありました。年のころだと30代後半から40代前半の男の人なんです。出たらそのメールの差出人でした。
 そこのご家庭には5歳の一人娘がいて、一週間後に6歳の誕生日を迎えるというのです。その6歳の誕生日にパイプの手すりを改造したものをプレゼントしたいという。数年前、自分の不注意で事故にあって、半身不随で歩けなくなったとの事です。それ以来ずっと車いすの生活をしているのです。私の楽しみは娘と一緒に手をつないで行った遊園地、公園のお散歩、これが私の唯一の楽しみであり、人生の励みであった。自分は絶対に死ぬまでに彼女ともう一回手をつないで一緒に散歩をしたい。そのお父さんが考えた結果、ベッドの手すりだったのです。車いす以外はベッドが多い。それをうまく使って先生といっしょにリハビリをやる。で娘さんを歩けるようにしよう。というのが、お父さんが考えたことです。お父さんが全部構想を練ったのです。要はそういうものをやってもらえるかの問合せだったのです。
 それで現場の人にみんな集まってもらって、相談の結果みんなもやりましょう、と言ってくれました。初めて図面のない仕事でした。それでもお父さんの強い思いを何とか形にして作ってあげたい、娘さんにプレゼントしてあげたいという現場の気持ちも一つになって悪戦苦闘しながらなんとか仕上げ、女の子の誕生日の前日に納品することができました。
 翌日、お父さんからメールが入っていて。
 「僕の気持ちを正直に一生懸命彼女に話して、伝えて、これが今年の誕生日プレゼントだよ」と渡したら、娘が大きな瞳に涙をいっぱいためて、「パパありがとう」と言って僕に抱きついてきた。浜野製作所のみなさん、本当にありがとう。と。

 僕らが出来る事で誰かが頑張ろうという気持ちになってくれたり、誰かのちょっとでもお役にたてたりすれば、僕らが仕事をやっている証というか意義があるんだなと、今でも思っています。そういう会社を目指してこれからも仕事をしたいです。

 それが忘れられない仕事であり、今でも個人のお客様の仕事を受けている最大の理由です。

 

―本日は「製造業版ディズニーランドへの挑戦」ということで、株式会社浜野製作所の浜野社長に記念講演をいただきました。本当に感動的な講演だったと思います。まことにありがとうございました。

 (文責 田中孝幸)