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第一経理ニュース

我が社の原点

父「息子を信じている。」
息子「親父のいうことに間違いはない。」

 

 


 

有限会社 ウチダ
代表取締役 内田 正美 氏

 

 設立したときの社名は「有限会社内田鉄工所」。鉄骨屋でスタートしたのち、アルミダイカスト製品の加工仕上げ業に業種を変えていきました。
 今回の我が社の原点は、有限会社ウチダの社長様に、お仕事の業種変えをした時のお話や、仕上げ業から加工業へと成長していく様子を伺いました。インタビューの後には先代社長であるお父さんもいらっしゃいました。改めて先代社長として、さらに父親としての立場でお気持ちを伺いました。

 

聞き手 : 埼玉事務所 池田 健一

 

 

● アルミの製品はなんでも

 

―お仕事の内容を聞かせていただけますか。

 

 アルミダイカスト製品を扱っており、得意先から成形されてきた部品を、穴をあけたり、削ったり、ねじ山を切ったりして、部品の機能を果たすように加工しています。コンマミリ単位、ミクロン単位までの調整です。そして仕上げといって、バリをヤスリで擦ったりという作業です。
 最終的には自動車とか、携帯電話の基地局で使うパラボラの部品などになります。まあ、アルミでできた部品はなんでもということで、医療機器もあるし、建築関係もありますね。


 ※アルミダイカストとは、アルミを溶かし液体状にした溶湯を、高速で金型へ流し込んで成型された部材。 

  

 子供のころから後継ぎを意識

 

―先代社長であるお父さんから社長を引き継いで16年たちますが、もともと後を継ごうと考えていらっしゃいましたか。

 

 先代の社長は鉄骨屋で、僕が物心ついたときから、外でトンカントンカン大きな音を立ててやっていました。小学生の頃から、将来は社長なんだと、従業員も僕にそう言っていました。お客様や親父の前でプロ野球選手になりたいとか、そういうことは言えなかったです。
 「将来は親父の後を継ぐ。」と言うと、親父の喜んでいる顔がわかる。親父は頑固で昔の考え方の人ですから、どうであれ、俺は継ぐのだなと思って育ってきました。
 だから中学校を卒業すると高校は工業高校と決めていました。工業高校を出てから、大学までは行くつもりはなかったし、すぐに親父の知っている、小さな鉄骨屋で修行が始まりました。

  

 鉄骨屋からダイカスト製造へ

 

 でも、一年も経たないうちに親父から、「このままやっていても仕事がなくなってしまうので、仕事を変えたい。」と打ち明けられました。当時、建築も不況のさなかでした。「従業員も年を取ってきて、高いところに上るのは怖いと言っている。」という話もありました。高い梁の上を、鳶も兼用でやっているようなものですから。親父なりに少し前から考えていたようでした。
 親父のゴルフ仲間にダイカスト業界の人がいて、その人の紹介でこちらに参入するわけです。30年くらい前の話です。兼業もせず、一気に切り替えました。十月頃話を聞いて、すぐ退社し、年明けにはこの仕事をしていました。

 

 

 親父の言うことに間違いはない

 

―鉄骨屋からダイカスト製品製造への突然の変更、不安はありませんでしたか

 

 親父は、「俺は小学校三年生くらいからこの仕事を始めていて、20歳ごろには職人を十数人雇って経営していた。」といつも言っていました。
 また、仕事に取り組む姿勢が厳しいということは、お袋から聞かされていました。そして親父は小さい時から苦労してきたそうです。何十年という人生の大先輩です。
 その親父が決めたことなので、間違いはないと思いました。跡を継ごうと「建築、建築」と思っていたけど、建築とは全然違う畑に進むことになります。まあ、親父の決めたことなので一緒にやろうという感じですね。

 

  

 バリ取りの仕上げでスタート

 

バリ取りの仕上げ作業

 最初は、ダイカスト製品の加工ではなく、バリ取りを行う仕上げの仕事でスタートしました。その仕事を紹介してくれた加工屋さんから、そろえるべき機械についても教えていただきました。
 そしてハンガーショットという大きな機械を購入したのですが、それは関東で三番目の導入だったそうです。
 この機械は、バリを取るためにアルミの玉を打ちつけるものです。既存の機械と比べ、引っ掛けるところがあって、製品同士はぶつからず、キズがつかないし、次の塗装工程でも見栄えがいいんです。
 機械の構造は単純なのですが、当時価格は一千五百万円もしました。とても手の出る機械ではなかったのですが、たまたま先に納品した会社が倒産し、返品されてきたもので八百万円でどうだろうという話が舞い込み、思い切って購入することにしました。本当にラッキーな話でした。

 

―では順調にスタートしたのですね。

 

 いいえ。そうではありませんでした。
 仕事が変わったばかりのときは、一人分の給料も出ませんでした。僕はお金のことなんか考えてないし、親父も含めて、5、6人いるのに、一人分の給料も払えないってお袋が嘆いていました。
 当初は親父とお袋、僕と、親父の妹二人、身内ばかりでした。このあと、パートさんが徐々に入ってきましたが、身内でやっているときには利益は出ず、製品を納めにいくと、不良だ、バリが残っていると返品され、口惜しくて泣いていました。
 しかし、ハンガーショットを入れてから、うちに仕事が随分来るようになりました。この機械で加工した後は、パートさんが10人ぐらいテーブルに並んで、一人ずつ部分を決めて、バリ取りの作業を行いました。体は大変だったけど、けっこう儲かった気がします。親父など先頭に立って残業していたから、夕飯はみんなに出していましたね。
 この機械を強く勧めてくれた加工屋さんや、資金もないのに導入を決めた親父のおかげです。

 

  

 バリ取りから加工へ

 

―この後、バリ取りの仕上げ仕事だけでなく、加工にも広がっていくわけですね。

 

 仕上げというのは埃だらけになって、しかも体ばかり使い大変なのです。さらに単価も安い。加工のほうが他の会社を見ていても、おもしろそうだなと感じていました。やっぱり自分がやっていてもおもしろい方が良い。知り合いである機械屋さんの工場長に入社していただき、それをきっかけとして加工を行うマシニングの機械を購入することになりました。

 

  

 加工のノウハウを学ぶ

 

 その人が加工の技術を持っていましたので、加工のノウハウが学べました。まず大きなマシニングの機械を1台入れて、一年経たずにもう1台入れた。その後からは一年に2、3台ずつ入れています。マシニングの機械が増えてくれば、どんどん仕事が入ってくる。そのあともまた機械が足りなくなるからマシニングを入れる、という繰り返しでしたね。
 その頃、バブルも重なって、景気がよかったというのもあります。どんどん仕事が入って、それなりの仕事ができた。仕上げの仕事も続けていたから、ただの加工屋ではなく、仕上げと加工の両方ができる。普通は仕上げ屋さん、加工屋さんと別です。お客さんもうちに出せば手間がかからない。それが魅力だといわれましたね。

 

  

 従業員さんの教育

 

―だんだん従業員さんが増えていくことになりますが、どうやって仕事を教えられていますか。

 

 技術を持っている人が教えていくというのが多いです。わざわざ勉強会を開くということはしてないです。品質管理部を設置して、測定の仕方など、書類をたくさん作って張ってあるので、それを見てやっています。セットしてしまえば、ある程度のルールを守ることで、マシニングはちゃんとしたものが出来上がる。だから普通の人も出来ます。力のかけ方なり、油なり均一に出来るので、熟練している人が少なくて済みます。
 今、機械加工部門のトップでやっている者は、自動車整備工場が前職なんです。関係ない世界ですが、モノづくりが大好きで、コンピュータもとても興味を持っていて、マシニングの機械を1週間で覚えてしまいました。どんどん彼が仕事をこなし、加工冶具を担当すると会社も業績がぐんと伸びました。
 加工冶具というのは、製品を同じ場所に固定する土台の方のことですね。機械は同じ場所を動くので、ずれたところにセットされてしまうと、穴が違うところに空いたり、削った寸法が違ったりするので、冶具づくりは重要です。

 

―フィリピンの方も多いですね。

 

工場の前で集合

 最初の頃は、日本語と英語の挨拶などが書いてある本で言葉を覚えたんですけど、結局そういうのを覚えてもあんまり通じないですね。今は、双方で日本語とタガログ語、英語を交えて話をしています。
 寸法の話は、計測器を使いながら「こことここを測って。」と、写真と図を描くなどしていますから、内容が伝わらないということはありません。
 仕事を教えることに関しては、前からいるフィリピン人が後輩を教えてくれるし、教えることによって自分自身の技術が上がったり、見直したりできるから、僕が教えるよりもフィリピン人同士で、というのはありますね。
 うちは人手が足らないから、入社すればあれもやって、これもやってと仕事の幅が広がっていきます。一度溶け込むとフィリピンの人は明るいし、積極的ですね。

 

  

 自分が真剣に取り組んでいる姿を見せる

 

―20人以上の従業員さん、会社をまとめるのは大変ですね。

 

 やっぱり、私の性格は、強くガンガン言うほうではないので、自分が真剣に取り組んでいる姿を見せて、人をどう動かすか、ということです。「もうちょっと自分達の仕事をしっかりやってよ。」というようなことを口で言っても、なかなかそれは伝わらない。
 親父はガンガン言う人だったけど、私は正反対です。むりやり残業させるのも嫌ですね。残業したいといえば大いに歓迎だけど。帰りたいと言っている人には無理は言いたくありません。
 常に私が先頭を切る気持ちでいます。

 

 

 お客さんとの付き合い方が重要

 

―これからの決意をお願いします。

 

 仕事というのは、良い仕事をしていれば集まるというものでもないと思います。お客さんとの付き合い方が重要ですね。僕がいつも思っているのは、お客さんと早く仲良くなりたいということです。
 仲良くしているから、困っているときは絶対に助けてあげて、モノを作って持って行ってあげる。本当に喜んでもらいたいという気持ちが大きく働くと思います。お客さんからくる仕事を海外に移転させないためにも、そういう気持ちで接していきたいと思います。
 現在、多くの機械を購入し、多くの従業員と仕事をしていますが、決して、自分で会社を大きくしようと思い、してきたわけではありません。お客さんに喜んでもらいたいという気持ちで大きくなってきたわけです。会社として整備は常に心掛けていきながらも、必要ならさらに大きくなります。とにかくお客さんに喜んでいただきたいですね。

(池田 健一)

 

 




 ―仕事を変えるというのは大きな決断でしたね。

  私は、親に戦争で死なれて貧乏のどん底で暮らしてきました。それで鉄骨屋になって、あっちの現場、こっちの現場、ずいぶん世の中のことを勉強しました。
 不景気になったあの当時、仕事のことを考えたとき、鉄骨というのは一棟建てると、百年以上持っちゃう。そうそう鉄骨屋を追っかけて行ってもだめだなと、自分で感じたんです。ブームの時には、私の性格にぴったりで良かったんだけど。
 また自分が現場で高いところから落っこちかけたことがあるんですよ。もうこれは俺の代限りで、長く続くものではないな、せがれには渡せる状況じゃないな、と感じました。     
 そこで、友達が「アルミダイカストの仕上げをやれよ。」って言う。「一週間でも十日でも分かるまで教えてくれよ。」と言うと、「いいよ、やってやるよ。」ということでこの仕事をやろうと決めたんです。それで、せがれに相談したら、「やる。」っていうから始めました。
 でも当時は、夜も寝られないくらいに、ずいぶん悩みましたね。自分の若さがまだある時に業種を切り替えるわけだから。鉄骨のほうがカネになるんです。ま、材料代もかかるけど。

 ―息子さんと社長を交代した時はまだ61歳でしたね。

  私がいつまでも社長をやっていくといっても、当然、次はせがれだし、早いうちに代れるなら代って、と考えていました。世間のこともよく勉強してもらって、私が元気な内に一人前になっていければ、お互いにいいかなと思って。
 やはり、自分はせがれを信じています。私と一緒にずっとやってきて、自分も親の目で見ていて、これなら責任もってやれるな、と感じました。
 それじゃ早いうちに渡したほうが、せがれも活力があるし、自分でやっていくという欲もあるだろうし。
 一方でもう少し俺が、という気持ちもありましたけどね。最初はやっぱり淋しかったですよ。そのあとフォローもしていますが、自分が身軽になっちゃたから、よけいロクなこと考えない。でも、自分のせがれだから、自分の背中を見て育った人間だから、絶対大丈夫だと信用して、気持ちよく渡したんです。今でも「ちょっと親父、来てくれよ。」って言ってくれますしね。