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第一経理ニュース

我が社の原点

ゴム風船で世界へ ~常に原点回帰が長寿の秘訣~

 

ギフト商品を手にする宮尾社長

 

 

 

 

株式会社ライオンゴム
代表取締役 宮尾 佳延 (みやお よしのぶ)

 

 

プロ野球もシーズンたけなわ、ラッキーセブンに夜空を彩るジェット風船は日本の夏の風物詩にもなっている。このジェット風船を作っているのが今回お訪ねしたライオンゴムさん、64年の社歴を誇る。ある経済紙の調査によると会社の平均寿命は30数年だそうだから、相当な長寿企業と言える。当然その間には幾多の試練を乗り越えてこられたものと想像され、その中には経営のヒントが隠されているのでは、そんな思いで葛飾区東立石の本社工場をお訪ねしました。

 

聞き手・文 渡部 貴広

 

―まず創業当時のことをお聞かせください。

 

創業者の祖父が親戚のゴム風船工場で修行して昭和10年に独立、今の墨田区に宮尾ゴムを創業したのがスタートです。その時祖父は25才だったと聞いています。
創業して数年で、原料の天然ゴムが軍事物資として徴用されてしまい国内では入手が困難になってしまいました。そこで昭和15年頃に原料を入手できる上海に工場を移したそうです。

 

―上海では何年ぐらいお仕事をされたのですか。

 

昭和20年の終戦時までいたそうですが、戦後ソ連軍に1年ぐらいゴムの技術者ということで抑留されたそうです。帰還後、昭和23年に墨田で宮尾ゴムを再開しました。その後、足立を経て昭和26年に現在の葛飾の地に移転し、個人企業からライオン護謨(ごむ)工業株式会社に改組しました。

 

 

第一の危機

 

―当時はどのような製品を製造されていたのですか。

ライオン印の昔の型録

ゴム風船とハムのラッピング用ゴムを作っていました。今はハムのラッピングはフィルム材ですが当時はゴムでした。売上の5割位をハムのラッピング用ゴムが占めていたんですが突然、フィルム材に切り替わってしまい売上が半減しました。その時が第1回目の危機だったと思います。その時、昭和38年位、売上減を補うためプラスチックの成形の仕事なども考えたらしいのですが、ゴム風船一本に特化してやってみよう、ということになったんです。
そこでフルオートメーションの機械を開発して、それをこの工場に4台導入しました。当時は世界を見回してもフルオートメーションの機械はなかったので、安くて品質が揃った風船を作れるようになってから息を吹き返しました。それで第1回目の危機を乗り切った、ということですね。

 

―当時の得意先はどのようなところでしたか。

 

当時は輸出がメインでした。1ドル360円の時代でしたからオートメーション化によるコストダウンの効果も手伝ってアメリカやヨーロッパにかなり輸出していました。

 

 

第二の危機

 

―その後の転機はいつ頃訪れたのでしょうか。

 

昭和47年頃、ゴムの産地であるベトナムのサイゴン、今のホーチミンの風船工場に機械を売り、そこで作らせた風船をアメリカなどに輸出しようとしました。いわばうちの第2の工場のような位置付けを考えていたのですが、アメリカがベトナムから撤退し南北統一の混乱の中、そことは音信不通になってしまいました。それからは円がどんどん高くなって輸出は皆無になってしまったため、国内のマーケットにシフトしていったそうです。

 

―それまで輸出がメインであったものを国内にシフトする、簡単なことではなかったと思いますが。

 

国内のルートを持っている問屋さんを開拓して、昭和50年代後半まではある程度の成果をあげたそうです。ところが、天然ゴムの産地であるマレーシア、タイ、メキシコがゴム風船を作るようになったんです。実はメキシコは世界最大の風船工場なのですが、そこから安くて品質の良いものが大量に入ってくるようになりました。
その結果、売り上げの4割を占めていた大阪の得意先との取引がなくなってしまいました。それで単に卸業者に無地の風船を納めるのではなく、オリジナル商品を開発して差別化を図りエンドユーザーに直接売りに行く方針に切り替えました。

 

―社長が会社に入られたのはその頃ですか。

 

はい、私は6年間大手玩具メーカーのマーケティング部にいたんですが、当時実家の工場で風船にどう付加価値を付けようか、とか直接どこかへ売りに行かなければダメだな、みたいな話をしている中で、「じゃあ戻りますか」、ということになったんです(笑)。その当時、25年位前でしょうか、マンガの「ちびまる子ちゃん」が大ヒットしました。メーカーで商品開発に係わっていたのが縁でその版権が取れ、ちびまる子ちゃん風船が大ヒットしました。それで一息ついたんですが、キャラクター商品はそう長続きはしませんし、そうそう後が続くものでもありません。
ただ、ちびまる子ちゃん風船が縁で、新たなお客さんと取引ができるようになり販路が広がったのが大きかったですね。たとえば全国展開している大手コンビニチェーンと取引のある問屋さんと取引が結べるようになったりとかですね、お得意さんが安定してきた、という効果はあったと思います。そのコンビニチェーンではうちのブランドの風船セットが100円で売られています。そことの取引はもう20年以上続いています。

 

 

第三の危機

 

―次の節目はいつ頃だったんでしょうか。

 

直接取引で当面の危機は回避したものの製造ラインは30数年経過して競争力を完全に失っていました。そんなタイミングに今から12年位前、同業者が一緒にフィリピンに工場を造らないか、と声を掛けてきました。当時、中国でもゴム風船を作るようになり、セットアップも含めかなりの安値攻勢にあっていました。そこでゴム産地のフィリピンでゴムの精製工場や風船工場を立ち上げ風船を輸入したり第3国に輸出することをやっていたのですが、これがうまくいかなくなり結果として多額の負債を抱えることになってしまいました。
うまくいかなかった理由は様々な要因があるのですが、原料の入手ができなくなった、というのが大きかったです。

 

―どうして手に入らなくなったのですか。

 

中国で天然ゴムを大量に消費するようになったんです。今や中国では年間2000万台も車が売れています。車のタイヤには4割天然ゴムが配合されています。風船の材料は天然ゴムを精製したラテックスと言われるものですが精製するには手間暇が掛かる、一方タイヤ用の材料はゴムの樹液を固めるだけでいい、しかも中国は大量に高値で買ってくれる。当然、ゴム農家が我々に回す材料は無くなってしまいます。
それでもお客さんに迷惑が掛からないように高値で入手したラテックスで作った製品を完全に逆ザヤで売っていました。フィリピンでは1歳半違いの弟の専務が技術者として頑張っていたのですが、今から3年前に完全に撤退しました。その当時は本当に倒産するかと思いました。

 

―そこからどう立て直されたのですか。

 

工場の敷地の一部を売却してフィリピンの負債を整理し、それからは国内での風船の製造は完全にやめ、輸入した無地の風船へのシルクスクリーン印刷に特化することにしました。商品名などを印刷して配布する販促用の風船は納期が短期間でしかも数万個、数十万個単位で注文が来ます。海外で印刷していたのではとても納期に間に合いません。
今日注文が来ても明日納品できる位の体制を持っていることが、国内のマーケットを考えた場合、生命線であり強みでもあります。

 

印刷風景

―設備投資には随分掛かったのではないですか。


印刷用の機械は1台5~6百万円しますが、それが現在4台あります。購入先はイタリア・韓国・イギリスですが、印刷面の大きさなど仕様がバラバラだったんです。きれいな印刷が安定してできるように改良に改良を重ねました。フィリピンから戻ってきた弟が大きな力になってくれ、それまで人間の目で行っていた検品作業を自動化できる選別装置を取り付けるなど、オリジナルと言ってもいいほどに仕上げてくれました。短期間に何万個、何十万個という数ですからね、オペレーターさんの負担もかなり軽減され、品質が安定することで利益率もかなり良くなりました。

 

―現在、お客さんはどういうところなのですか。

 

販売先の割合は、イベントやセール、住宅展示場などで来場者に配る宣伝販促用が4割、コンビニやおもちゃの量販店向けのセット商品が4割そして、球団関係が2割という構成です。

 

―プロ野球球団で風船を飛ばしている9球団のうち、御社では6球団と取引があるそうですね。9分の6というのは相当なシェアですが、球団と取引ができるようになったのは、どうしてですか。

 

実は、現在、日本でゴム風船メーカーと言われる会社は、大阪にあるタイガーゴムと東京のライオンゴムの2社だけなんです。残りの3球団はタイガーゴムが作っています。
球団数は6対3ですが、飛ばしている風船の数はほぼ同じです、ということはタイガーゴムが持っている球団名はお分かりかと思います(笑)

 

―日本に2社だけというのは驚きです。しかもライオンとタイガー、一番強いのが生き残ったということですね。

 

ええ、「動物園対決」なんて言われています(笑)。この業界では昔、動物の名前を旗印にすることが多かったそうです。
うちがここで創業した当時は、全国にゴム風船工場は20数社あったのですが、どんどん廃業して生き残ったのは2社だけになってしまいました。ジェット風船というのは日本独特のものなので海外のメーカーは作らないじゃないですか、だから野球界ではどちらかに頼むしかない、という状態なんです。(笑)

 

―野球はシーズンスポーツですね。やはり数が出るのは今頃ですか。

 

そうですね大体、開幕前の3月ごろに年間の大まかな数字をもらいますが、あとは球団の成績次第ですね。ホームグラウンドでクライマックス、日本シリーズまで行けば当然数は伸びます。

 

 

これから

 

―将来のことについてお聞かせください。

 

これまで売上が安定しない販促用から定番商品であるセット商品の比重を高める努力を続けてきました。販促用は決まれば100万個とか出るときは出るのですがやはり安定性に欠けます。一方、量販店に収めるセット商品は年間の売上、利益の見通しも立てやすいですからね。現在の戦略は、コンビニチェーンや量販店と取引のある得意先をもっと深掘りしていこうと考えています。具体的には企画力を生かし、こういうセット商品はどうでしょうかという提案型の攻め方をしていこうと思います。この深掘りという点では33歳のいとこの息子がかなり戦力になってくれています。

 

本社工場正門前にて


それから、現在ジェット風船は韓国、丸型・ハート型風船は主にタイでOEM生産していますが、風船の安定供給を考え、42年前に果たせなかった祖父の意思の実現を目指しベトナムに再チャレンジしようと考えています。今回は韓国で機械を作り、うちの製造ノウハウを加えてベトナムの協力工場に売り、そこで生産した製品をアメリカなど第3国に輸出しようと考えています。これができれば韓国、タイ、ベトナムと風船の供給元を分散させることができ、品不足のリスク、為替リスクも避けられますからね。中期の目標はここに置いています。

 

―ギフト商品の開発も手掛けておられるそうですね。

 

ギフト関係は4月に入社したばかりの娘が中心になって進めています。
バルーンブーケ、バルーンアレンジメントなど、現在商品見本の撮影をしていてフェイスブックや当社のホームページから購入できるように準備しています。
欧米では誕生日など記念日に花の代わりにメッセージが印刷されたバルーンを贈る文化が根付いています。これは日本だけでなくベトナムやタイでも将来的に大きな可能性を感じますね。

 

―若い感性に期待するところ大ですね。最後に同業者が次々と去っていく中でここまで生き残れた秘訣をお聞かせください。

 

品質の良いゴム風船を作る技術、印刷できる技術を持っていることだと思います。一時はフィルム製の風船などに手を出したこともありましたが、現在はうちの3代引き継ぐノウハウが詰まった自然に優しい天然素材で作った風船をベトナムから世界に売っていくことと、国内では既存の得意先への深掘りと風船の新たな可能性にチャレンジしていきたいですね。

 

―本日はお忙しい中、ありがとうございました。