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第一経理ニュース

戦後70年特集 対談「戦争体験者から聞く」

平和のためには、歴史に学び、民主主義に敏感でなければ

 

     河野相談役(左)      宇浪氏(右)

 


 

東興鋼業株式会社
会長 宇浪 興
(元一・一会代表世話人)

第一経理
相談役 河野 先

 

 

 今年は、戦後70年になります。この節目の年に、国会では「戦争法案」と言われる「安保法案」が審議されています。
 今回の特集は、戦争体験者である、東興鋼業株式会社の宇浪会長と、第一経理元社長の河野相談役の対談をお送りいたします。70年前当時のお話から、戦争法案、次世代へのメッセージなど、熱く語っていただきました。

 

司会  第一経理 長谷川 元彦

 

学徒動員で高射砲の弾を作っていた

 

司会 「戦争法案」が審議されていますが、国会審議では、抽象的なやり取りが多いと感じています。本日は、戦争を実際に経験しているお二人から、戦争、憲法、次世代へ伝えたいことをお話いただければと思います。
 ではさっそく70年前のお話になるのですが、終戦をどういう形で迎えられましたか。

宇浪 僕は、中学校卒業前後の15歳、勤労学徒動員で、高射砲の弾を作っていました。赤羽台に高射砲の砲台があって、赤羽、十条、王子が軍需工場地帯でしたね。飛鳥山で1万人が入れる防空壕の穴掘りもやったかな。友達には、予科練に志願した者、満蒙開拓義勇軍で行って帰ってこない者も多くいたね。
 東京大空襲の時は、おやじの実家、秋田の大館に疎開していた。おふくろを東京に残していたから、8月18日の汽車で東京に帰ってきたんだよ。そうしたら上野駅は、屋根はないし、ひどい状況だったよ。

 

東京大空襲で父が行方不明に

 

p2-河野氏河野 私は、中学1年生のとき、3月10日の東京大空襲に遭っています。自宅は田端だったのですが、父が、深川の富岡町で医者をしていました。当時は町を守るということで、医者の当番制もあったのです。ちょうどその日にぶつかってしまい、父は帰って来ませんでした。僅か2時間半で10万人の死者、100万人の被災者という国際法違反の無差別空爆だったのです。
 4月ごろに警察から電話があって、東陽公園で遺体を見たという報告はあったけど、実際には分からなかった。焼け跡の石を骨代わりに持って帰りました。通っていた都立三中(いまの両国高校)も、もちろん丸焼けになりました。3月9日に別れた友達の半分は被災しました。

 

焼け跡は言葉にできない悲惨な状況

 

河野 3月13日に学校に行こうと思って、上野から秋葉原を通って、錦糸町まで歩きました。道路は黒焦げの焼死体、川は溺死体で山になっている。道路の両側は防空壕の中に蒸し焼きの死体。そして、防火用水にも死体。どこを見ても人の亡くなった姿。赤ん坊を背にしたお母さんの死体の背中が白くなっているのを憶えています。
 やっと学校にたどりついたけど、学校の校門にはまだ処理できない死体が積んであった。校舎に入ると、白い壁に赤い血が飛んでいるところと、人間の脂が染みているところがあるという状況。人間の焼けた臭いがする。とてつもない臭いで、帰ってから2、3日食事がのどを通らない。悲惨な状況だったということを記憶しています。

 

逃げることができなかった「防空法」

 

宇浪 毎日の様に、空襲があって、3月10日から、都市のほとんどやられていたね。最初に狙われたのが下町でした。

河野 防空法という、火を消せ、逃げてはいけないという法律があった。逃げる人に対しては町会台帳から削除して、物資配給は停止という通達まで出ました。それによって被害がより大きくなった。

司会 三年前ですが、NHKの朝のドラマ「ごちそうさん」で、公務員の主人公が逃げろといったら、防空法にひっかかって軍隊に送られたという話がありました。

 

平和憲法は「戦争をやらない」「軍隊へ行かない」

 

司会 戦後一年余りで、今の第9条を含む日本国憲法が出来たのですが、どのように受け止めましたか。

宇浪 まず感じたことは、戦争をやらないということです。これは世の中変わるなと思いました。ただ、連合軍、アメリカの占領下でしたからね。占領は早くなんとかしなければならないとも思ったね。
 若かったから、メーデー事件とか、軍政反対というビラ貼りで、警察に捕まったりしましたね。当時、捕まった仲間がずいぶん沖縄へ飛行場造りに送られました。

司会 それは懲役代わりに、沖縄の軍事基地造りに行かされたという話ですか。憲法が出来ていたけども、占領下だったので、まだ主権がなかったということでしょうね。
 河野相談役は新憲法をどのように感じましたか。

河野
 中学から新制大学受験の頃だったと思います。いちばん嬉しかったのは、戦争をしないで済む、軍隊に行かなくていいということです。憲法について意識し始めたのは60年安保のときですね。社会人として、日米安保の問題に直面してあらためて憲法というものを意識したという感じです。

 

「戦争法案」について

 

司会 今国会で憲法違反の安全保障法案、いわゆる「戦争法案」が審議されています。昨今の情勢についてどのように思いますか。

宇浪 今の安倍さんの話は、アメリカ軍との共同行動とか、勇ましいことを言っているけど、福島の原発事故という現実をみて、何も感じないのかね。原子炉一つ破壊されたら大問題だ。私は、もっと他のことを考えたほうが良いと思う。

司会 河野相談役はいかがですか。

河野 戦争法案の問題では、どうしてそんなことを考えるのかと思いますね。アメリカが、この法律を通してもらいたいということははっきりしていますね。今のその様子をみていると、60年の安保条約の終盤戦に似ているね。アメリカが後押ししているから、あれだけ安倍首相が強気になっているのでしょう。

 

戦後総括をしていない

 

河野 日本は戦争の総括をやっていないですね。東京大空襲の後、広島、長崎に原爆を落とした米空軍のカーチス・ルメイに旭日大徽章(勲一等旭日章)を天皇の名で佐藤内閣が贈っている。新しい憲法ができた後でも昭和天皇が、沖縄は使ってくださいというメッセージを残している。そういうことが未だに解決されていない。
 沖縄はかわいそうなことに、戦時下から未だに解放されないで、改めて捨石にされようとしている。それだけではなく、オスプレイの配備も含めて、完全にアメリカに従属して、自衛隊が戦争に参加していく形が法律的にとられていくという、非常に危険な状態だと思います。

 

民主主義を命がけで守ったことがない

 

司会 今の若者、今後の世代に対して“戦争”というテーマで、言っておきたいことはありますか。

宇浪 今度は選挙権を18歳に下げるというけれど、もうちょっと日本人もヨーロッパの経験を学んで、いざという時どのように立ち向かうかを、常日頃考えないといけない。

司会 ヨーロッパの経験というのは何を指していますか。

宇浪 フランスにしてもドイツにしてもレジスタンスの経験がある。ヨーロッパの人達はそれぞれ理性をもって命を賭けて戦いをしてきている。
 日本の国民性というのはスーっと流れてしまい、特におかしい。なぜ日本人はもう少し一言「ちょっと待て」というところがないのか。政府のいうことが、すべてなんだよ。殿様時代からそうやってきたからそうなのかもしれない。

司会 もう少し自分の頭で考えないといけないということですかね。ヨーロッパではレジスタンスを含めて命を賭けて、民主主義を守るということをやってきたが、日本ではそれが弱い。これは真剣に物事を考えるということが弱いのではないか、それが心配だということでしょうか。

 

近代史をきちんと学なければならない

 

司会 河野相談役はどうですか。

河野 大切なのは、日本の近代史をきちんと学ばないといけないということです。日本の戦争がなぜ始まったのか、ポツダム宣言を含めて、どう終わったのか、きちんと勉強してもらいたい。たしかに戦後、経済成長もあったけれど、日米安保条約の問題について考えてほしい。孫崎享さんの書いた本「戦後史の正体」と「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」という本を、ぜひ読んでいただきたい。そのなかで、今後の日本のあり方を考えてもらいたい。
 沖縄の問題は沖縄だけの問題だと、みんな思いがちなのですが、沖縄の人にとって未だに戦後は終わっていないのです。そういう意味でしっかり考えてもらいたい。同時にいずれ徴兵制ができるのではないかと思うし、事実自衛隊に人が集まらなくなり、働くところがなくなれば、徴兵制に近い仕組みがつくられるということが考えられます。
 それと国の税財政の問題からでも、税の問題が結果として戦争の財源に転嫁していくということは考えられるわけです。そういう視点で税財政の問題も考えてもらいたい。

 

報道機関の規制は絶対反対

 

司会 最近、報道機関に圧力をかけるような話がされていますが、経験からどう考えますか。

宇浪 日本の政治家というのは短絡的だね。反対だという声を多くの人から挙がってくると、自民党は報道機関が悪いという言葉が出てくるのだから。マスコミの規制は絶対反対だ。マスコミはもっと自由にやるべきだ。政治家が言うことではなくて、読者が言うことだ。政治家が決める話ではない。

司会 潰せと言われた琉球新報東京支社の女性記者から聞いた話ですが、「左翼に乗っ取られて偏っていると言われたが、私たちは沖縄県民に偏っているのであって、別にそれを偏っているとは思っていません。」と。「琉球新報は百年以上の歴史があり、戦前は一県一紙にまとめられて国策新聞になってしまった。その結果が沖縄戦になったので、戦後、その反省から県民の立場に立ち、戦争に対するあらゆることに対して反対するということを社是としてやってきた。それを偏っているというのなら、それで結構だと、私たちはそういう立場で報道しているのだから。」となかなか興味深かったです。
 そして、そのようにしてしまったのは誰なのか、本土の人はどう考えているのか、ということも話していました。圧力をかけようとしていることが公開されたことで、逆に私たちはすっきりした、と言っていました。

河野 戦時中は、報道の自由がないから。3月10日の空襲だって、皇居の馬小屋が燃えたとしか報道されなかった。広島に原爆が落っこちたのだって、全然わからない。何か落っこちたらしい、としか分からない。何人被害にあったということも全然教えてくれない。どこに空襲があったのかもまったく報道がなかった。

p2-対談風景

 

最後の世代、訴え続ける

 

宇浪 われわれが戦争最後の体験世代、上の人はみんな倒れているのだから今の若い者にはしっかりしてもらわないと。政治家なんて、何をやっているのかわかりゃしない。最終的には庶民が参ってしまう。もう何年も寿命がないから、俺もやれることは全部やってやろうと思う。脚が治れば五霞町中歩こうと思っている。九条の会を皮切りに。

河野 私は東京空襲の裁判をまだまだ続けます。あらゆるところで訴え続けて行きたい。

司会 河野相談役はいまも裁判をやっているので、どんどん発言したいということが良く分かりました。また、いろいろな機会に発言いただければと思っています。本日は、戦中・戦後を体験されたお二人に、当時の様子を語っていただきました。東京大空襲について知らない方は、ぜひ、「東京大空襲・戦災資料センター(注)」に足を運んでいただければと思います。今回は、民主主義について若者が敏感でないと大変なことになる、ということが結論なのかなと思って聞いておりました。

 宇浪会長から元気になったら、五霞町の九条の会で活動したいというお話もありました。またお聞きできることを楽しみにしています。ありがとうございました。

(長谷川 元彦)

 


 

(注)東京大空襲・戦災資料センター   p2-資料館
 1945年3月10日未明の空襲は罹災者100万人死亡者推定10万人と言われています。「東京空襲を記録する会」が、1970年より記録の収集を行ってきました。
 1999年に東京都が「平和祈念館」の建設を凍結してしまいました。「記録する会」と財団法人政治経済研究所が募金を呼びかけ、4000名を超える人の協力によって、センターの完成をみました。土地は一篤志家から無償提供され、第一経理の阿部・河野も建設にかかわりました。現在館長は早乙女勝元氏。修学旅行生の来館も増えています。身近であった戦争の記録をぜひご覧ください。

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