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第一経理ニュース

随想

上杉鷹山のふるさと

 

スタビライザー株式会社
代表取締役 阿部 敏夫

 

p11 それなら私よりもっといい人がいる、と言ったのは川西町(山形県)町長の横沢三男さんである。
 20年以上も前のことだ。中小企業経営者の団体で上杉鷹山の財政再建策について勉強することになった。当時、童門冬二の「小説上杉鷹山」がベストセラーで講師に適任との意見もあった。但し講師謝礼が無理との判断もあり私が鷹山の地元に詳しいとのことで米沢市在住の横沢さんに依頼したのである。結局横沢さんの後輩で県立米沢興譲館高等学校の元校長先生を紹介していただき講演は圧倒的好評のうちに終了した。

 上杉鷹山(ようざん)(治憲(はるのり))は景勝から数えて9代目、上杉謙信からでは10代目である。会津120万石のときに直江兼続(かねつぐ)が30万石で米沢に入封した。関ヶ原の戦いで石田三成の西軍に味方した上杉は敗戦のあと4分の1に石高が減ったのに家来5千人を一人も解雇せずに米沢に移り住んだ。家族もいれれば3万人とも言われた。それでなくとも3代目藩主綱勝(つなかつ)が急死して吉良上野介義央(こうづけのすけよしひさ)の子三郎が養子に入り15万石に減封されて収入は減ったがお家断絶をまぬがれる。
 現代風に考えれば資本金が1/8になったのに社員数だけは元のままである。藩財政は困窮を極め幕府に藩籍奉還さえ、ささやかれるようになる。そこに登場するのが江戸時代を代表する財政再建のヒーロー鷹山である。
 17才で上杉重定のときに後継者になる。日向(ひゅうが)高鍋(たかなべ)藩2万7千石藩主秋月種実(たねみ)の次男が養子に入ったのだ。それは今から約260年前のことである。
 藩立直しも会社再建も同じようなものである。経費、贅沢を切り詰め付加価値の高い新規産業を興す。現代でも江戸時代でも全く同じである。行政改革は当事者にとって辛いものだ。新潟の渡辺家、酒田の本間家から多額の借金が残り下級武士は郷方(ごうかた)と称し半士半農の仕事につく。現在の高級ブランド和牛、米沢牛の生産地、小高い丘の米沢から川西町にかけての農地である。
 当時から米沢では屋根、家屋大工を決して大工と呼び捨てにせず、お大工(だいく)様と敬称で呼んだとのことである。それはリストラをまぬがれた下級武士が大工を兼務していたからのせいだとか。町人も又、気をつかって生活していたのだ。
 藩政改革が難儀なのは東京都政だけではない。治憲は竹俣当綱(たけのまたまさつな)、莅戸(のぞき)善政(よしまさ)などの改革派を執政に起用するが成果はあがらない。
 謙信の命日は藩を挙げて質素にすごす慣例なのだが此の日竹俣は朝まで飲み呆けて失脚する。舞台となったと思われる料理屋が江戸時代から続く名声を保って川西町で営業を続けている。縁あって利用したことがあるのだが格式の高い雰囲気は今も失ってはいない。
 自ら卆先垂範したと言われる、節倹のありようは江戸藩邸の予算を1,500両から209両に削減したことでも解る。
 人材の育成には心血をそそぎ儒学者細井平洲を江戸から三顧の礼をもってむかえ、藩校「興譲館」をつくる。
 鷹山、最大の成果は35歳で治広に事業継承のとき、米沢藩主の心得三ヶ条、であろう。「国家や人民のために君主があるのであり君主のために国家や人民があるのではない」有名な「伝国の辞」である。
 雪深い米沢の地で民主主義の夜明けが始まったのだ。それはアメリカのケネディ大統領が日本人記者との会見で最も尊敬する日本人は上杉鷹山と答えて一躍有名になった。
 日本大使のキャロライン・ケネディが先頃そのことを新聞に発表して地元の人達は一段と喜んだ。米沢地方ではこれからがイモ煮会のシーズンである。