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第一経理ニュース

特集 昔からの顧問先を訪ねて(第六話前編)

 

“不屈の生き様 三度の危機を乗り越えて”

株式会社 パワー 会長 渡辺 剛博(たけひろ) 氏

 第一経理創業者で現相談役の阿部国博が直接顧問先を訪問し、取材した内容を「昔からの顧問先を訪ねて」と題して連載しています。今月号から3回に分けて「第一経理の顧問先の中で最も古い歴史を持っている」株式会社パワーさんが登場します。“タコ社長”の異名をもつ渡辺氏が幾多の危機を乗り越えながらも会社を継続してこられたお話は私たち経営者に多くの“学び”を与えてくれます。是非ご一読ください。

1 家業の系譜

 株式会社パワーの事業は、明治の中頃、現会長渡辺剛博氏の曽祖父が、刺繍の職人として仕事を始めた時から続いている。創業120余年、第一経理の顧問先の中で最も古い歴史を持っていると思われる。
 私は刺繍については何も知らない。渡辺会長に話を聴き、また氏の著書『刺しゅうの本』を読んで、まずその発祥の古さに驚いた。にわか仕込みの知識を短くまとめてみる。
 「刺繍は縫い取りとも呼ばれ、刺繍糸で生地の表裏から文様を縫い表すこと、またその製品のことを言います」(『刺しゅうの本』より)
刺繍の源流は紀元前3000年頃のエジプトや紀元前1600年頃の中国などで発生している。衣装や所持品・調度品などに、精緻な  刺繍を施し、王族や僧侶など高貴な身分の者の権威を象徴するものとして宮廷芸術や僧院芸術の一端をも形成した。
 また、各地域や民族ごとに、庶民が刺繍で衣装などを華やかに飾り、その民族を特徴づける生活文化の一部ともなった。
 渡辺氏は、その著書の中で次のように記している。
 「刺繍は人類が生活と共に受継いできた文化財である。いうなれば刺繍は服飾美の原点といえるでしょう」と。
 刺繍一筋にきた渡辺家の家業を継いだ三代目の光一氏(剛博氏の父)は、その事業を大きく発展させた。光一氏は若くして日本刺繍の名人となることを志し、伝統ある京都まで修行に出かけて研鑽を積んだ。その後何かの動機で、刺繍名人の道を断念、事業として刺繍を発展させる道に突き進んだ。名人芸としての刺繍を事業、即ち商品としての刺繍に切り換えた。そして、その活動はきわめて旺盛なものであった。
 商品の対象を和装から洋装に絞り、また手刺繍から生産性の高いミシン刺繍に転換した。
『歩み・ニット産業を樹立した人々』(センイジャーナル発行)の中に次のように記されている。「渡辺光一氏は、手刺繍の名人にこそならなかったが、洋装ニット製品の刺繍業界に機械を導入するなど、刺繍業界の技術革新に大きく貢献し、刺繍業界の歴史に重要な足跡を残した」
この三代目の光一氏が家業を組織変更し、㈱大東服飾を設立し、事業をさらに大きくした。この光一氏が昭和51年(1976年)の夏、海水浴中に心臓麻痺で急逝された。

2 事業継承の危機を乗り越えて

 光一氏の急逝で、剛博氏(現会長)が社長として事業を継ぐことになった。剛博氏34歳の時である。剛博氏は1942年(昭和17年)生まれ、大学卒業後、教授のすすめで、チェコスロバキアに4年間留学、帰国して日本チェコ協会のチェコ語教師として「日ソ学院」やジェトロの教室を借り、教えていた時であった。
 当時は第一次オイルショックで、不況の波は刺繍業界にも及び、当社は経営的に大変苦しい時期でもあった。社長を引継ぐにはいくつもの難関があった。先代は優れた事業家でもある。そこを事業経営に係わったこともなく、刺繍のことも知らない若者が突然社長となり、職人たちを取り仕切ることになったのだから容易なことではない。職人の中には幼い頃、可愛がられ、抱いて寝てくれた古参の職人もいる。また、「一介の外国語教師に刺繍のことが判るか」と反発する者もあった。しかし、剛博氏は突然の事業継承という難関を僅か4年足らずで見事に乗り越えた。
 真面目に額に汗して働く当社の伝統を守りながら、合理的、科学的経営を目指した。社内の諸状況を数字に基づいて把握し、それに社内外の情勢を結びつけることによって、経営理念、経営計画、経営目標を全社員に明確に示した。当時の中小企業にとっては斬新なことであり、当社にとっては当然初めてのことであった。
 1980年(昭和55年)、次のような経営理念を定めた。
㈱大東服飾・経営理念
  1. 刺しゅう加工を中心とした日本一の企業を創る。
  2. 額に汗して働き、高能率、高賃金を実現する。
  3. 全社員がその道のプロであり、人間尊重を柱とした優れた人格者の集団となる。
  4. 得意先・仕入先とともに繁栄しよう。
  5. 平和で民主的な豊かな社会建設に刺しゅう文化を通して寄与する。
 最初に高く大きな目標、次に社員の具体的、現実的な目標、そして働く者の目指すべき倫理、更に取引する相手と共有すべき考え方、最後に、国家、社会に対する心意気が、高らかに掲げられている。
 当時の新社長の高揚した気概が響いてくるようである。
 これが今から30年も以前に従業員50名ほどの町工場が掲げた経営理念である。
 その理想の高さ、考え方の深さに感服してしまう。
 この経営理念の下に、第一次中期計画と年次計画が定められた。
 第一次中期経営計画に揚げられた主な項目は次のようなものであった。
  1. 中堅アパレル水準の労働条件、賃金の獲得
  2. 販売部隊の独立化(別法人化)
  3. 東京、新潟、栃木シフトの完成。山形、秋田、山梨の拠点確保
  4. 生産・技術重視の姿勢を堅持
  5. 教育を最重視し、人を育てる
 1980年(昭和55年)以降、会社の業績は順調に伸び続けた。
 渡辺会長は、事業継承当時を振り返って次のように語られている。
 「会社の内容が判ってくるにつけ、その厳しさに眠られぬ夜を過ごしたこともしばしばあった。でも、まだ若かったし、気も張っていたので、その第一の試練を何とか乗り越えてこられたと思う」さらに、「私が職人でなかったから、またこの業界の外で社会を見てきたので、激動の時期に対応する科学的な経営という観点に立つことができた。また、第一経理との結びつきができ、貴重な助言、指導があったから、さらに第一経理の河野先生を介して、中小企業家同友会に参加、そこで経営というものの勉強ができたお蔭である」と話されている。
 1980年から10年の間に販路と生産規模を拡大し、計画どおり、新潟、栃木、山形、山梨に子会社を設立した。売上高は、1990年には、6億8000万円程となり10年前の約5倍に達し、従業員数は62名になった。
 その間、社名を“大東服飾”から“パワープランニング”と変更した。企画力を高め、力強く仕事を取り、同時に外注先にもどんどん仕事を出すぞとの思いを込めての商号変更であった。

3 バブル崩壊と金融機関との闘い

 順調に発展を続けていた当社にも、バブル崩壊の嵐は襲ってきた。それは当社にとってはその存続を問うほどの強烈なものであった。
 自社ビル建設と事業拡張のための複数の金融機関からの借入金は、総額で7億余円になっていた。
 この借入金に対し、各金融機関から一斉に、貸しはがしが始まったのである。銀行の言いなりになったら当社は自社ビルの処分はもとより、事業倒産に追い込まれることは必至となった。
 しかも、この金融機関との攻防が開始されて間もなく、1993年、渡辺社長が突然C型肝炎の宣告を受けた。厳しい闘病の毎日が続くことになった。返済猶予の交渉、さらには仮差し押さえ、抵当権実行、競売開始決定などなど各金融機関との全面抗争に、渡辺社長は病身に鞭打ち、一方では事業継続の執念を燃やし、渾身の力を振りしぼって超人的な闘いを続けられた。
 渡辺社長は、そうした困難な状況の中で詩を書き残した。社長の言うところによれば、「あまりの苦しさに、呻吟する言葉がこぼれ落ちてきたものを形にした」と言われる。詩集『タコ社長ブルース』(1998年、㈱晩聲(ばんせい)社刊)著者花田武史(ペンネーム)がそれである。
 中小企業の経営者の多くは、この「タコ社長」のように、会社のため、肉体的にも精神的にも、血のにじむ苦労を続けられている。しかし、誰もその心境や思いを他人に語ってはくれない。ところが、渡辺社長(タコ社長)は、己の苦しみや嘆きを詩として書き綴られた。
己を客観的に見つめ、それを克明に表現されたのである。
 私はこれを読んで、強い感銘を受けた。同時に、これは多くの中小企業経営者の心情に共鳴するに違いないと思った。そこで渡辺会 長の許しを得て、その中の幾編かをこの報告の中に転載させてもらうことにした。
 その最初に、次の詩を選んだ。
「私が挫けてしまったなら」
私が挫(くじ)けてしまったなら
その瞬間に
プラネット※は
倒れてしまうだろう
最低売り上げの確保のための
積極的な販売攻撃の手を弛(ゆる)めたなら
そして 私の号令のトーンが
チョットでも沈んでしまったら
私の会社は
瞬時に瓦解(がかい)してしまう
私が挫けてしまったなら
その瞬間から
プラネットは
蜃気楼(しんきろう)のように
消えて無くなってしまうだろう
仮差し押え 競売開始決定
金融機関との全面抗争の中で
チョットでも息を抜いてしまったら
その周到な計画と対応が遅れたなら
そして私の闘争心がチョットでも萎えてしまったなら
その時こそ 私の会社は瞬時に倒れてしまう
極めて簡単なこと
※プラネット ……惑星、遊星。ここでは“わが社”
 金融機関との闘いは、ほぼ10年間続いた。この間、社名を“パワープランニング”から“パワー”に変更した。心機一転の思いが込められている。1999年(平成11年)に金融機関を含む債権者集会を開いて、基本的には解決することができた。
 借入金4億円を棒引きさせ、規模は縮小したものの事業は守りきることができた。本社ビルも維持することが可能になった。
 この闘いを振り返って、渡辺会長の言うことには、「私にとっては命を削る闘いであったが、諸葛孔明のような優れた軍師が付いてくれた。そのお蔭で会社も潰さずに済んだのです。その軍師とは金融機関出身の第一経理の元嘱託、当時はDDKの専務をされていた方です」と。
 私はこの話を聞きながら思った。「優れた軍師がいて、しかもその機略を駆使して闘える勇将がいたからこその戦果(事業継続)でしょう」と。
 金融機関との闘いを続ける一方では、会社経営の内容も大きな困難に突き当たっていた。
 バブル崩壊の頃から、日本の繊維産業は生産を海外、主に中国にシフトしはじめ、その流れは1995年(平成7年)あたりから本格化した。そのため当社の国内での仕事は年々減少し続けた。
 当社の得意先の大所は、殆どが海外生産に移行してしまった。バブル崩壊による不況と、この産業構造の変化の二重の要因で、当社の売上高は1999年4億4800万円から年々減少を強いられ、2009年には2億2300万円と10年前の50%以下になり、二期連続しての赤字決算となった。
 こうした状況の中でも、会長は生き残る術を「狂気になる程まで」考え、それらを強力に実行した。子会社の切り離しもそのひとつであった。1980年(昭和55年)最初の中期経営計画に掲げ、順次設立した新潟、栃木、山形、山梨などの子会社は、10年以上にわたって、当社の発展に大きく寄与したのだが、産業構造の変化に対応すべく、やむなく順次独立させ、本社の負担を避けた。
 しかし、この長く厳しい第二の危機を乗り切ることができた根幹にあるものは、会長の精神力・執念である。それは『タコ社長ブルース』の随所に溢れている。それは「得意先・お客を増やす」ための新事業や諸対策となって具体化されてくる。
 会長の話にもある、「父から事業を引継いだ頃、同業者はみんな職人出でした。得意先から仕事が来るのを待っているという習性があった。私は職人ではなかったし、海外での生活や教師の経験もある。外に出る、人と話す、仕事で言えば営業は苦にならなかった。営業をすれば仕事はいくつも取れた。仕事を取って来るのが会社の原点と考え、得意先開拓を最優先の課題にしてきた」と。この得意先を増やし、当社の製品・商品を買ってくれるお客を増やし続けるとの意欲と実行力が、第二の危機を乗り切った原動力であった。
取材・文責 阿部 国博(第一経理相談役)
――次月に続く